tensor4all

Julia から Rust へ:AI エージェント時代の科学計算向け微分可能テンソルスタック

tenferro-rs は Rust ネイティブな密テンソルスタックだ。線形代数、PyTorch 流の eager 自動微分、JAX 流の traced 変換、NumPy 流の einsum、FFT、拡張可能な演算 crate 群と、明示的な CPU/CUDA バックエンドを備える。最初の crate 群は 2026 年 6 月 23 日(JST)に crates.io へ公開した。

文責: Hiroshi Shinaoka(埼玉大学)、tensor4all チーム

🌐 English · 日本語 · 简体中文

tenferro-rs architecture overview


テンソルネットワークのコードは、これまで Julia で書かれることが多かった。私たちも例外ではない。ITensors とその周辺エコシステムでは、数式に近い形でプロトタイプを書ける。試行錯誤もしやすい。IR 基底、スパースモデリング、そして tensor4all のテンソルクロス補間(TCI)/quantics スタックも、まず Julia で開発してきた。

一方で、コードベースが大きくなると Julia での開発はだんだん重くなる。実行時になって初めて出る型不安定性、編集とテストの往復を遅くするコンパイル/プリコンパイル時間、そしてコードが増えるほど正しさを確認しにくくなる感覚がある。テンソルネットワークのスタックをより大きなシステムへ組み込む段階で、この問題を無視できなくなった。そこで、計算エンジンを Rust へ移し始めた。

始めてすぐ、別の問題にも気づいた。土台にしたいテンソルライブラリが、まだ揃っていなかった。Rust にも用途ごとのライブラリはある。配列なら ndarray、深層学習なら Burn、線形代数なら faer。ただ、自動微分から einsum までをまとめて扱え、科学計算のコードで使いやすいテンソル層はまだ足りなかった。私たちが作りたかったのは、それらを置き換えるライブラリではない。既存のライブラリの間をつなぐスタックだ。

Rust の状況は、この数年で大きく変わった。crates.io は 2015 年の 602 crate から 2026 年には約 21 万 crate へ増えた(データ)。密な線形代数には faer があり、GPU カーネルには CubeCL があり、汎用数値には num-traitsnum-complex がある。配列なら ndarray、線形代数なら nalgebra や faer、深層学習フレームワークなら Burn や candle、NumPy 風の配列 API なら numr もある。私たちが必要としていたのは、これらの間を埋める科学計算向けのテンソルスタックだった。列優先で、動的 shape を扱え、eager と traced の両方の自動微分を持ち、einsum や FFT、CPU/CUDA バックエンド、拡張可能な演算を備えたものだ。そこで tenferro-rs を作っている。faer と CubeCL の上に作り、再発明ではなく必要な部分を足していく。SparseIR.jl や Julia のテンソルネットワークコードを移植してみると、どの層が足りないのかも見えやすかった。

こうして tenferro-rs の開発が始まった。この記事では、このスタックを作っている理由と、コードを書くのが人間だけではなくなった今、なぜ Rust を選んだのかを解説する。

なぜ今、Julia ではなく Rust なのか

2、3 年前なら、私は学生にまず Julia を勧めていただろう。Julia は数式に近い形で書け、メモリ管理も楽で、数値計算ライブラリも揃っていた。Rust は覚えることが多く、ライブラリもまだ不足していた。

今は同じことが言えない。Rust が変わったからではなく、コードを書くのが人間だけではなくなったからだ。

Fortran も Python も Julia も、人間が手でコードを書き、読み、保守するコストを下げる方向に発展してきた。可読性、REPL、数式に近い記法、入りやすさ。AI がコードを書くようになると、言語に求めるものも変わる。書く速さは前ほど問題ではない。学習コストも、多くの部分をエージェントが引き受ける。一方で、「数式のように読める」ことは正しさを保証してくれない。エイリアシング、ミューテーション、アロケーションは、行の見た目からは分からない。

私たちにとって、基準は「人間がどれだけ速く書けるか」から「正しさをどれだけ確かめられるか」に変わった。この基準で見ると、Rust を選ぶ理由がはっきりする。

具体的には、次の点が大きい。

C++ や Python、Julia で大きなコードを書いていると、「この規模でまだ検証できるのか」という不安が出てくる。Rust では、明らかにその不安感が少なく感じる。

移植から、スタックへ

最初から汎用のテンソルライブラリを作ろうとしていたわけではない。必要なものを移植し、道具に悩まされる時間を減らしたかった。ただ、実装を進めるうちに、自動微分、バックエンド、演算の追加方法をテンソルネットワーク専用に閉じ込めると後で困ることが分かってきた。そこで、共通部分を独立したテンソルスタックとして設計することにした。

この設計にしたことで、テンソルネットワーク以外の用途にも使える形になった。

tenferro-rs を 2 分で

このスタックが提供するのは、型付きテンソル、backward() を伴う即時(eager)実行、grad/vjp/jvp/HVP を伴う traced グラフ、線形代数、einsum、FFT、そして明示的な CPU・CUDA(および実験的な WebGPU)バックエンドだ。

以下は PyTorch 流の eager 自動微分で、sum(x²)(勾配は 2x)を、リポジトリの eager_autodiff_pytorch_style.rs からそのまま引用したものだ。

use tenferro_ad::{EagerRuntime, Tensor};

fn assert_close(actual: &[f64], expected: &[f64]) {
    assert_eq!(actual.len(), expected.len());
    for (index, (actual, expected)) in actual.iter().zip(expected).enumerate() {
        let error = (actual - expected).abs();
        assert!(
            error < 1.0e-12,
            "value {index}: actual={actual}, expected={expected}, error={error}"
        );
    }
}

fn main() -> Result<(), Box<dyn std::error::Error>> {
    let runtime = EagerRuntime::new();
    let x = runtime.variable_from(Tensor::from_vec_col_major(
        vec![3],
        vec![1.0_f64, 2.0, 3.0],
    )?)?;

    let prediction = x.mul(&x).unwrap();
    let loss = prediction.reduce_sum(&[0])?;

    assert_eq!(loss.shape(), &[]);
    assert_close(loss.materialized()?.as_slice::<f64>().unwrap(), &[14.0]);

    loss.backward()?;

    let grad = x
        .grad()?
        .expect("tracked variable should receive a gradient");
    assert_eq!(grad.shape(), &[3]);
    assert_close(grad.as_slice::<f64>().unwrap(), &[2.0, 4.0, 6.0]);

    x.clear_grad()?;
    assert!(x.grad()?.is_none());

    Ok(())
}

この例では、プログラムが自分で結果を確認している。検証を重視する方針が、この小さな例にも出ている。同じ計算は、一度コンパイルして再利用する JAX 流の traced グラフとしても、grad/vjp/jvp 付きで実行できる(traced_autodiff_jax_style.rs を参照)。どの層を使うかは選べる。型付きテンソル、自動微分付きの eager、あるいは traced グラフ。自動微分、CUDA、einsum、FFT、線形代数は、どれも必要なときだけ有効にできる。

データでサイズが変わる計算

JAX と XLA は、shape が固定された計算をまとめて最適化し、同じ形の入力に対して高速に再実行するのが得意だ。ただし shape がデータに依存し始めると、途端に扱いづらくなる。打ち切り閾値、適応的なボンド次元、データ依存の反復回数。サイズが実行時にしか分からないと、新しい shape のたびに再コンパイルが必要になる。再コンパイルを避けて eager 実行に戻すと、gradvjp などの変換を同じ流れでは使いにくくなる。

これはテンソルネットワークや、適応的な科学計算の多くにとって、日常の現実だ。私たちが扱うものの大半はそうだ。ランクやボンド次元がデータで変わる計算では、再コンパイルなしに同じ traced プログラムを使い続けられることが効いてくる。

tenferro は traced プログラムを一度だけコンパイルし、具体的なサイズ(ランク、閾値、反復回数)が実行時に決まっても、それを再利用する。その間も grad/vjp/jvp が使える。一方で、サイズが静的に決まる計算では OpenXLA を使えるようにしてある。tenferro-xla はグラフを StableHLO へ lower し、PJRT プラグインを読み込めるので、原理的には JAX と同じ計算速度に到達できる。

正しさを外から確かめる

AI が書いた数値計算ライブラリには懸念がある。見た目は正しそうでも、中身が間違っていないか。

そこで、信頼の根拠を「コードを読むこと」だけに置かない。目視に頼らず、別の仕組みで確かめられるようにする。

オラクルもベンチマークも別々のリポジトリにあるので、ライブラリを書くエージェントが基準を動かすことはできない。規則とコードも継続的に突き合わせ、ずれがあれば早く見つける。さらに、ファイルごとのカバレッジ閾値を強制するテスト群を加える。生成されたコードをレビューするだけではなく、正しさ、性能、設計を別系統のチェックで確かめられるようにしておく。

試してみる

最初の tenferro crate 群は crates.io にある。単一の bundle ではなく、モジュラーなスタックそのものとして公開した。

[dependencies]
tenferro-tensor = "0.1"   # tensors, views, backends
tenferro-ad     = "0.1"   # eager + traced autodiff
# plus tenferro-linalg, tenferro-einsum, tenferro-fft, tenferro-cpu,
# tenferro-gpu, tenferro-xla: add only what you need

tenferro-rs はまだ v0.1 のプレビューで、1.0 として固まったものではない。一方で、単なる実験でもない。私たちの Rust テンソルネットワークスタック tensor4all-rs(TreeTN・QTT・TCI)のエンジンとして使い、実際の科学計算ワークロードで動かしながら開発している。ホスト言語が Python なら、JAX や PyTorch を使うのが自然だ。tenferro-rs は、同じような機能を Rust から直接使いたい人に向けて作っている。プレビュー段階なので、今なら利用者からのフィードバックを設計に反映しやすい。

特に、ndarray、nalgebra/faer、Burn/candle、PyTorch/JAX、あるいは Julia/Fortran を科学計算・HPC で使ってきた方に試してほしい。

実際の科学計算ワークロードで試して、足りないところ、遅いところ、間違っているところがあれば教えてほしい。そういう報告は非常に有益だ。

謝辞

初期の tenferro の設計について Jin-Guo Liu さんに、開発支援について Satoshi Terasaki さんに感謝する。

開示: この記事は AI コーディングエージェントと著者の協働で執筆され、記事が述べるのと同じ、人間が検証するワークフローで仕上げられた。